「新しいものが正しい」と思い込む危険――幸田露伴『努力論』が教える“価値の見極め方”
「新しいもの=良いもの」とは限らない
幸田露伴の『努力論』には、時代を超えて心に刺さる一節があります。
「新しいもの、最新のものであれば何でもよいものであるかのように錯覚する人がいる。」
この言葉は、まるで現代の“新しさ信仰”を予見していたかのようです。
露伴は、人が「新しい」というだけで価値を感じてしまう心理を鋭く見抜きました。
実際、古いものでも「新」という言葉をつければ売れる。
この現象は、今の広告やSNS文化にもそのまま当てはまります。
しかし露伴は断言します。
「何でも新しければいいというものではない。」
“新しい”という言葉の裏には、「判断を放棄する危うさ」が潜んでいるのです。
新しさとは「価値」ではなく「状態」にすぎない
露伴は、例として「ビール」と「ワイン」を挙げます。
「ビールは新しいものがいいというのは、新しくあるべきものが新しいからいいのだ。」
つまり、新しさそのものが良いのではなく、「新しくあることが求められる対象」だから良いということ。
一方で、ワインは時間をかけて熟成されることで価値が増すものです。
そこに“新しさ”を求めるのは、物の本質を理解していない証拠です。
このたとえから、露伴の意図は明確です。
「新しい=良い」と短絡的に考えることが、誤った判断を生む。
本当に見るべきは“新しさ”ではなく、“そのものにとっての本質的な価値”なのです。
現代社会の「新しさ信仰」――アップデート中毒の時代
この露伴の指摘は、現代にもそのまま当てはまります。
テクノロジー、ファッション、ライフスタイル――私たちは常に「最新」に追われています。
- 新機種が出たから買い替える
- 新しいトレンドだから取り入れる
- 新しい働き方だから正しいと思う
しかし、そこに「なぜそれが必要なのか?」という問いを失ってはいないでしょうか。
“新しいこと”を追い続けるあまり、“良いこと”の基準が曖昧になっているのです。
露伴が生きた明治の時代も、西洋文化の流入で「新しい=進歩的」と考える風潮が広がっていました。
そんな中で、彼は冷静に問いかけます。
「新しくあるべきものが新しいことはいい。だが、すべてのものがそうとは限らない。」
まさに今の時代にも通じる警句です。
「古いもの」には理由がある――時間が育てた価値
露伴は、単に“新しさを否定”しているわけではありません。
むしろ、「古いものの中にある価値を見直せ」と言っています。
古いものが長く残るには、それだけの理由があります。
それは人々が長い時間をかけて磨き、試し、受け継いできた“知恵”の結晶です。
たとえば――
- 職人の手仕事
- 昔ながらの生活の知恵
- 伝統的な礼儀作法
- 先人の言葉や哲学
これらは決して“時代遅れ”ではなく、“人間らしさの基盤”なのです。
露伴は、そうした古き良き価値の中に「人間の本質を見る目」があると考えていました。
「新しい」か「古い」かよりも、“ふさわしいかどうか”を見極める
露伴の教えを現代風に言い換えるなら、こうなります。
「新しいことが良いのではない。状況にふさわしいことが良いのだ。」
たとえばテクノロジーでいえば、常に最新のものを追う必要はありません。
自分の目的に合っているか、本当に価値を生むか――そこに目を向けることが大切です。
人間関係でも同じです。
「新しい出会い」ばかりを追うより、長く続く信頼関係を育てるほうが、心の豊かさにつながります。
露伴の哲学は、「新しさよりも、誠実さ・本質・継続」を重んじる生き方を教えてくれます。
まとめ:新しいものを疑う勇気を持て
幸田露伴の「新しいことがいいとはかぎらない」という言葉は、
私たちが“新しい”という言葉に惑わされていないかを問いかけています。
本当に大切なのは、「新しいか古いか」ではなく、
そのものが持つ価値が“生きている”かどうか。
流行よりも本質を、スピードよりも確かさを。
露伴のこの一節は、変化の激しい現代社会においてこそ、
「賢く選ぶ」ための道しるべとなる言葉です。
