新渡戸稲造『修養』に学ぶ——逆境を経験した者だけが人情を知る
「逆境にこそ、人情を知る心が育つ」——新渡戸稲造の言葉
新渡戸稲造は『修養』の中で、こう語ります。
「人間というのは逆境を経験してはじめて人情というものを理解することができるのだ。
終日遊び呆けて享楽的な一生を過ごす人が、どうして人情を理解することができようか。」
この言葉には、人生経験の核心があります。
人は、困難や痛みを経験して初めて、他人の苦しみを想像できる。
つまり、**逆境は人を優しくし、共感の心を育てる“学校”**なのです。
キリストが人々の心を打った理由
「今日、キリスト教が世界の何億もの人々に心の平安を与えているのは、
キリスト自身がつねに逆境にあって、人生の辛酸をなめ、人情というものをよく知っていたからだ。」
新渡戸は、キリストの教えが世界中の人々の心を癒す理由を、
その「生き方」に見ています。
キリストは富も権力も持たず、迫害や孤独の中に生きた。
だからこそ、人の痛みを誰よりも深く理解できた——。
新渡戸は、「苦難を通して得た慈愛」こそが人間を聖くすると考えました。
つまり、知識や地位ではなく、痛みの経験が人を真に“人間的”にするのです。
「身をつねってこそ人の痛さを知れ」
「『身をつねってこそ人の痛さを知れ』という言葉があるように、
逆境に陥り、逆境の何たるかを知った者だけが、真の人情を理解することができるのだ。」
新渡戸がこのことわざを引用しているのは象徴的です。
「人の痛みは、実際に自分が痛みを感じてみなければ本当には分からない」——。
この感覚こそ、人間理解の出発点です。
誰かを慰める言葉よりも、
「その苦しさ、少し分かる」と共に感じることのほうが、
何倍も相手の心を支えることができます。
逆境の経験は、人を“優しく強く”する。
それは、修養の道そのものです。
「苦しみを避ける」より、「苦しみから学ぶ」
現代では、苦労や失敗をできるだけ避ける風潮があります。
しかし新渡戸は、逆境を“避けるもの”ではなく、“生かすもの”として捉えました。
- 失敗したとき、なぜそれが起こったのかを見つめる
- 傷ついたとき、同じ痛みを持つ人を思いやる
- 苦しいときこそ、感謝と忍耐を学ぶ
こうした姿勢が、苦しみを“修養の糧”に変えるのです。
新渡戸は「逆境こそ、魂の成長の場」と見ていました。
それは、避けるべき不幸ではなく、人間を磨く“試練”なのです。
「享楽の人生」では、人情は育たない
「終日遊び呆けて享楽的な一生を過ごす人が、どうして人情を理解することができようか。」
新渡戸は、人情を理解できない人の典型として、
「苦しみを知らない人」「楽だけを求める人」を挙げています。
快適さや成功だけを追う生き方では、
一見満たされていても、人の痛みに鈍感になっていく。
そのような人生では、心の深さや温かさは育たないのです。
真の教養や人格は、苦しみを通してしか得られない。
それが、新渡戸の変わらぬ信念でした。
逆境を経験した人が「優しい顔になる」理由
逆境を経験した人には、独特の穏やかさがあります。
他人を責めず、話を聞く姿勢がある。
それは、自分もかつて弱さを抱えたことがあるからです。
新渡戸の言葉を現代的に言えば、
「優しさは、痛みの記憶から生まれる」
ということです。
苦しみを乗り越えた人だけが、
他人の心に寄り添える“静かな強さ”を持つのです。
まとめ:逆境は、人を磨く“人情の師”である
新渡戸稲造『修養』のこの章は、
現代の「苦しみを避けたい」という風潮への温かな警鐘でもあります。
「逆境を経験してはじめて、人情というものを理解することができるのだ。」
苦しみや失敗は、決して無駄ではありません。
それは、人を優しくし、共感の心を育てる「修養の道」。
誰かの痛みに寄り添える人になるために——
今の逆境を、人生の糧として受け止めてみてください。
新渡戸稲造が言う「人情」とは、まさに**“痛みを通して育つ愛”**なのです。
