新渡戸稲造『修養』に学ぶ——「ここだ」という感覚をもて
「ここだ」という感覚とは何か——新渡戸の直観哲学
新渡戸稲造は『修養』でこう語ります。
「物事というのは、たいていの場合、その善悪の判断がすぐつくものだ。
そして善事を行おうとするときには、日ごろ自分がすべきだと思っていたのは『ここだ』という感覚をもって行うことが大切だ。」
この“ここだ”という感覚は、単なる思いつきではありません。
それは、日々の生き方・考え方・心の持ち方によって磨かれた道徳的直感のこと。
新渡戸は、善悪の判断は本来「誰もが心の中に持っている」と信じていました。
しかし、その判断が鈍るのは、日ごろの怠惰や妥協が心を曇らせているからだと指摘します。
だからこそ、日々の修養によって“心のレンズ”を磨く必要があるのです。
善を行う「瞬間の決断力」
「善事を行おうとするときには、『ここだ』という感覚をもって行うことが大切だ。」
誰かを助ける、正しい選択をする、勇気を出して行動する——。
そうした瞬間に必要なのは、頭の中の理屈ではなく、心の中の確信です。
多くの人は、「これをやるべきだ」と分かっていながら、「今じゃなくてもいい」と先延ばしにしてしまう。
その一瞬の迷いこそが、善意を逃す原因です。
新渡戸が言う「ここだ」という感覚は、
まさにその**“ためらいの一瞬を超える勇気”**を指しています。
善を思ったら、考えるより先に一歩を踏み出す。
それが“修養された心”の働きなのです。
「悪事」にも“ここだ”の瞬間がある
「自分が怠惰に流れようとしたときにも、『ここだ』と反省して、自分を食い止めるようにしてほしい。」
新渡戸は、人間が弱さを持つことを理解していました。
誰でも怠けたくなるし、誘惑に負ける瞬間もあります。
しかし、悪事や怠惰に染まる前には、必ず「ここだ」と思う瞬間がある——。
その小さな違和感や後ろめたさに気づけるかどうかが、人生を左右する。
新渡戸は、**「悪に傾く瞬間の自覚」**こそ、修養の成果だと説きます。
つまり、「ここだ」と感じたそのときに、自分を立て直せる人。
それが、真に強い人間なのです。
「瞬間の判断」は、日常の積み重ねから生まれる
新渡戸は、「ここだ」という感覚を生まれつきの才能とは考えていません。
それは、日常の小さな選択の積み重ねによって育つ感性です。
- 嘘をつかない
- 約束を守る
- 手を抜かずにやり遂げる
- 人に優しくする
こうした日々の行動が、心の中に“正しい感覚”を積み重ねていきます。
そして、それが大きな決断のときに「ここだ!」という形で働く。
つまり、「瞬間の決断力」は、習慣的な誠実さの集積なのです。
現代に通じる「ここだ」の力
現代社会は、情報があふれ、判断が難しくなっています。
誰かの意見や世間の評価に流され、
自分の「ここだ」という感覚を信じることが怖くなっている人も多いでしょう。
しかし、新渡戸の言葉は静かに問いかけます。
「あなたの心は、日ごろから『ここだ』と感じられるほど磨かれているか?」
AIやデータがどれほど発達しても、
人間が最後に頼れるのは、自分の内なる感覚=良心です。
それを信じる勇気を持つこと。
それが、迷いの多い現代を生き抜く力になるのです。
まとめ:「ここだ」と感じたら、動ける人になろう
新渡戸稲造『修養』のこの章は、
人生の分かれ道に立ったとき、どうすべきかを教えてくれます。
「どんな些細なことにも、重要な転機になる『ここだ』という瞬間があるものだ。」
その瞬間を逃さずに行動できる人は、
日ごろの心の鍛錬を怠らない人です。
「ここだ」と感じたらためらわずに善を行い、
「ここだ」と気づいたら悪を退ける。
その積み重ねが、人としての品格と信頼をつくっていきます。
新渡戸稲造が伝えたかったのは——
瞬間の判断にこそ、日々の生き方が現れるという真理。
そして、その“ここだ”を信じて行動できる人こそ、
真に修養を積んだ人なのです。
