「どんな仕事にも尊さがある」──幸田露伴『努力論』に学ぶ、職業に貴賤なしの精神
「仕事の格」で人を判断する愚かさ
幸田露伴の『努力論』には、時代を超えて通じる“働くこと”の本質が語られています。
その中でも第201節「事業の種類に優劣はない」は、現代社会にも深く響く内容です。
露伴は冒頭でこう述べています。
「事業を経営している人々の中にも、喜ばれ尊敬されている者がいる一方、疎まれ軽蔑されている者もいる。しかし、その違いは事業の種類によって生じているわけではない。」
つまり、人が尊敬されるかどうかは、仕事の“種類”ではなく“姿勢”によるということです。
銀行の経営者も、廃品回収業の経営者も、
正しく誠実に働いているならば、どちらも同じ価値を持っている。
露伴のこの考えは、「職業に貴賤なし」という言葉に通じる普遍の真理です。
「上級の仕事」「下級の仕事」という幻想
露伴は続けて、こんな一文を残しています。
「銀行の経営者は上級で、廃品回収業の経営者は下級だなどということは決してない。」
明治という時代に、ここまで平等な労働観を説いていた露伴の洞察は驚くべきものです。
現代でも、「一流企業に勤めている人はすごい」「肉体労働は地位が低い」といった偏見が根強くあります。
しかし、露伴はそうした価値観を真っ向から否定します。
彼が重視したのは「何をしているか」ではなく、
**「どう働いているか」**でした。
「正しく働く人」は、すべて尊い
露伴の核心の言葉がこちらです。
「どんな業種であっても、不正でない仕事を行っている者はみな同等だ。」
ここに、露伴の「労働観」と「倫理観」が凝縮されています。
どんなに社会的に地味な仕事でも、
- 嘘をつかず、
- 人をだまさず、
- 真心を込めて働いているならば、
その仕事は尊い。
逆に、どんなに華やかで高収入な職業でも、
不正や虚偽を重ねているなら、その仕事は卑しい。
露伴は、**“仕事の価値を決めるのは業種ではなく、その人の誠実さ”**だと断言しているのです。
「働くこと」自体に価値がある
現代の社会では、「どんな仕事をしているの?」という質問が、人を測る指標のように使われています。
けれども露伴の哲学では、**「働いていること自体が尊い」**のです。
働くとは、自分と社会をつなぐ行為。
誰かの生活を支え、社会を回しているという意味で、
すべての仕事には等しく価値があります。
銀行がなければ経済が止まり、
廃品回収がなければ街が機能しない。
社会は、あらゆる職業の協力で成り立っています。
露伴のこの章は、そうした「共に支え合う働きの尊さ」を改めて教えてくれるのです。
「どんな仕事をするか」より「どう生きるか」
露伴は、事業家の優劣を決めるのは職業の種類ではなく、
**“その人の人格と志”**であると説いています。
「どんな事業に従事しているかは、事業家の優劣にまったく関係ないことなのだ。」
つまり、
- 地味な仕事でも誠実に取り組む人
- 人の役に立とうとする人
- 感謝を忘れずに働く人
こうした人こそが、本当に尊敬される“事業家”なのです。
露伴のこの思想は、現代のキャリア観にも一石を投じます。
「好きな仕事を選ぶこと」も大切ですが、
その前に、「どんな気持ちで仕事をするか」を問うことが、
人生を豊かにする第一歩なのです。
「尊敬される人」とは、社会に誠実である人
露伴が「尊敬される事業家」と呼んだのは、
社会に対して誠実に責任を果たす人でした。
仕事の規模や地位、名声ではなく、
- 正しい目的のために働いているか
- 他者を思いやっているか
- 不正をしない強さを持っているか
この3つこそが、露伴の考える“成功の基準”です。
その意味で、彼の思想は単なる倫理論ではなく、
**「人としての成功とは何か」**を問う哲学でもあります。
おわりに:すべての仕事に、誇りを持とう
幸田露伴の『努力論』は、「努力すれば成功できる」という単純な話ではありません。
それは、「人がどう生き、どう働くか」という生き方の指針です。
「事業の種類に優劣はない」という言葉は、
現代のすべての働く人へのエールでもあります。
どんな仕事にも意味があり、
どんな努力にも価値がある。
自分の仕事を誇りに思い、
他人の仕事を尊重できる社会こそ、
露伴の理想とした“進歩する世界”なのです。
