自己啓発

「全能の人など存在しない」——幸田露伴が語る、“完璧主義”から自由になる生き方

taka
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「全能の人など存在しない」とは

幸田露伴は『努力論』の中で、こう語っています。

「孔子や釈迦やキリストのように万人が仰ぎ見るような人たちでさえ、
われわれが思っているような全能の人だったかというと、それは大いに疑問だ。」

つまり、**どんなに偉大な人物でも“完璧ではなかった”**ということです。
私たちは、歴史に名を残す偉人を神格化しがちですが、露伴はそうした幻想をやさしく打ち砕きます。

「全能の人」という理想像を掲げて、それを目指そうとすること自体が、
人間としての現実から目をそらす危うさをはらんでいる——露伴はそう警鐘を鳴らしているのです。


偉人たちもまた“人間”だった

露伴が名を挙げた孔子・釈迦・キリストは、確かに人類史における偉大な存在です。
しかし、彼らでさえも生涯の中では迷い、悩み、時には苦しみながら歩み続けました。

孔子は晩年、「道行われずして我を知る者なし」と嘆き、
釈迦も出家の後、悟りに至るまでの長い苦行に苦しみました。
キリストも、人々に誤解され、迫害されながら十字架にかかりました。

つまり、偉人たちは失敗や苦難を通して偉大になったのであって、
もとから全能だったわけではないのです。

露伴は、この事実を通じて「人間は不完全であることに意味がある」と伝えています。


「完璧を求める心」が人を苦しめる

露伴がこの章で最も伝えたかったのは、
完璧主義の危険性です。

「全能の人というのを想定して、自分もそうした人になりたいと願いがちになるが、
実際にはそのような人は存在しなかったと考えたほうがいい。」

私たちは「理想の自分」「完璧な上司」「欠点のない親」などを目指そうとして、
自分を過剰に追い込んでしまうことがあります。

しかし、露伴は言います。
“全能の理想像”は幻想にすぎない。
それを追い求めるほど、人は現実とのギャップに苦しみ、自信を失っていく。

むしろ、自分の限界を認め、それでも努力を続けることに人間らしさがあるのです。


「不完全さ」は努力の出発点

露伴の思想は、単に「完璧を諦めろ」という消極的な考えではありません。
むしろ、「不完全さを受け入れることでこそ、努力が始まる」という積極的な人生観です。

人は、自分の足りなさを知ったときに初めて学ぼうとします。
弱さを自覚したときに、他人の痛みに共感できるようになります。

完璧を装う人は成長しません。
欠点を見つめ、そこから一歩進もうとする人だけが、真に強くなる。

露伴のこの章は、まさに**「不完全を抱きしめる勇気」**を教えてくれるのです。


「全能ではない」からこそ、つながりが生まれる

もし人が全能で、何でも一人でできる存在だったら——
他人を必要とせず、社会も友情も生まれません。

露伴は、直接そう書いてはいませんが、
この章には「人は不完全だからこそ助け合える」という含意があります。

完璧ではないからこそ、人は他者に学び、支え合いながら成長していく。
だからこそ、「全能ではない」という事実は、
人間社会にとって最大の美点なのです。

露伴は、人の弱さや欠点を否定するのではなく、
それを「共に生きるための条件」として肯定しているように思えます。


まとめ:「全能」を捨てて、誠実に生きる

幸田露伴の「全能の人など存在しない」という言葉は、
現代の“完璧でなければならない社会”への鋭いメッセージでもあります。

  • 全能の人間はいない
  • 偉人もまた悩み、迷いながら成長した
  • 不完全さを認めることが、努力の始まりである

露伴が教えてくれるのは、**「欠けたまま努力する人の尊さ」**です。

完璧を求めるよりも、誠実に努力する。
失敗を恐れるよりも、学び続ける。
それが、露伴のいう“真に強い人間”の姿です。

だからこそ、今日うまくいかなくても大丈夫。
全能でないあなたが努力している——その姿こそ、最も人間らしく、美しいのです。

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ABOUT ME
TAKA
TAKA
理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
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