「福を得たいなら福を植えよ」|幸田露伴『努力論』に学ぶ、幸せを呼ぶ“植福”の生き方
福を得たいなら、まず「植える」ことから始めよ
「福を得たい」と願う人は世の中に多いものの、
実際に幸福を手にしている人は多くありません。
幸田露伴はその理由を、『努力論』の中で次のように説明しています。
「福をもちたいと切望する人は非常に多い。
しかし、福をもっている人は少ない。
福を得たとしても、惜しむことを知る人は少ない。
さらに、分け与えることを知る人は少ない。
そして、福を植えることを知っている人はさらに少ない。」
この一節には、**“幸福の段階”**が明確に描かれています。
つまり、
- 福を得る
- 福を惜しむ(大切にする)
- 福を分け与える
- 福を植える(未来のために行動する)
露伴は、この最終段階である「植福(しょくふく)」こそが、
最も尊い生き方であり、真の幸福を呼ぶ方法だと説くのです。
「植福」とは、未来に福をまく行為
露伴は言います。
「米を得ようとすれば稲を植えることに、ブドウを得ようとすればブドウの木を植えることに優る方法はない。
これと同じように、福を得ようとすれば福を植えることに優る方法はない。」
この比喩は、極めてシンプルでありながら本質的です。
「収穫したいなら、まず種をまけ」という自然の原理を、
人生の幸福にも当てはめているのです。
露伴にとっての“福を植える”とは、
自分や他人の未来に良い影響をもたらす行動を積み重ねること。
たとえば——
- 誰かに親切にする
- 誠実に働く
- 嘘をつかない
- 感謝を忘れない
こうした“地道で誠実な行為”こそが、やがて「福の芽」となって芽吹くのです。
「福を植える人」が少ない理由
露伴は、こうも言います。
「残念なことに、福を植えることを回りくどいことだとして敬遠する人があまりにも多い。」
現代にもその言葉は通じます。
私たちはどうしても「すぐに結果を得たい」と思ってしまう。
努力の成果がすぐに見えないと不安になり、「遠回りだから」とやめてしまう。
しかし、露伴はそこにこそ“幸福になれない理由”があると喝破します。
福を植えるとは、短期的な損を恐れず、長期的な幸せを信じる心のこと。
だからこそ「福を植える人」は少ないのです。
福を植える人は、やがて大きな福を得る
「植福」の考え方は、単なる理想論ではありません。
露伴は、これを“幸福の循環”として明確に捉えていました。
福を植えれば、それがやがて芽を出し、
時を経て自分や他人のもとに戻ってくる。
これはまさに、「原因と結果」の法則です。
- 親切にしたことは、やがて自分に返ってくる。
- 誠実な努力は、遅れて報われる。
- 感謝の心は、周囲の信頼を呼び込む。
露伴は、**福を植えるとは「未来の自分を助ける行為」**であると教えてくれています。
福を求める前に、まず“福をまく人”になる——それが真の努力家の姿です。
現代に活かす「福を植える」生き方
この露伴の「植福の思想」は、現代社会においても非常に実践的です。
忙しい日々の中で、誰もが「今すぐ結果がほしい」と焦りがちですが、
長期的な視点で“未来に福をまく”ことを意識すると、人生は穏やかに変わります。
ここでは、現代版の「植福の実践法」を3つ紹介します。
- 「今日の行動」が未来の福になると信じる
たとえ誰も見ていなくても、誠実な行いを続ける。
それは確実に、自分の未来を耕すことにつながります。 - “恩送り”を意識する
受けた恩を「返す」のではなく、「次の人に送る」。
それが社会全体の幸福を育てる「福の連鎖」を生みます。 - 短期的な損を恐れない
時間やお金、労力を惜しまず人のために使う。
それこそが、長期的に見て最も価値ある投資=植福です。
幸田露伴が伝えた「幸福の四段階」
露伴が語る“福の哲学”には、次のような四段階の進化があります。
- 惜福(しゃくふく):福を大切にし、浪費しない。
- 分福(ぶんぷく):福を他人と分かち合う。
- 積福(せきふく):善行を積み重ね、福を蓄える。
- 植福(しょくふく):未来のために福をまく。
この中で「植福」は、最も深く、最も長期的な福の形です。
露伴は、人としての成熟とは「与えること」「残すこと」にあると説いたのです。
まとめ:幸せは“もらうもの”ではなく、“育てるもの”
幸田露伴の「福を得たいなら福を植えよ」という言葉は、
幸福を“待つ”のではなく、“育てる”という人生哲学を教えてくれます。
米を得たければ田を耕し、ブドウを得たければ木を植える。
それと同じように、幸せを得たければ、今この瞬間に「福の種」をまくこと。
小さな善意、努力、感謝の言葉——それらが未来の幸福を育てていく。
露伴の教えは、100年前も今も変わらず、
**「幸せは行動から生まれる」**という真実を伝えているのです。
