正しいことをするだけで十分
古代ローマの哲人マルクス・アウレリウスは『自省録』の中でこう述べています。
「何か善いことをして誰かの役に立てたら、それで十分である。そのうえなぜ愚か者のように、余計なものを欲しがろうとするのか――善行に対する称賛や見返りを」
この言葉は、現代を生きる私たちにとっても鋭い問いかけです。私たちは正しい行いをしても、つい「感謝されたい」「評価されたい」と思ってしまいます。しかし、善行は本来それ自体で十分な価値を持つものであり、称賛や見返りは不要なのです。
「なぜ正しいことをしたのか?」の答え
誰かが困難に耐えながらも正しいことをした姿を見ると、私たちは「これこそ人間の理想の姿だ」と感じます。そこには称賛や見返りがなくても、自然に尊敬の念が湧いてくるのです。
つまり「なぜ正しいことをしたのか?」という問いに対する答えは、いつもシンプルであるべきです。
「それが正しいことだったから」
この姿勢を持てるかどうかが、人としての成熟を分けるポイントなのです。
見返りを求めることの落とし穴
正しい行いに対して見返りを求めると、行為の純粋さが失われます。たとえば、仕事で同僚を助けたのに「ありがとう」と言われなかったとき、苛立ちを覚えることはないでしょうか? それは助けたこと自体ではなく、感謝の言葉を得ることを目的にしてしまった証拠です。
しかし、感謝や称賛を求める気持ちが強くなるほど、正しい行いは自己満足の道具になってしまいます。これでは本来の「善行」とは呼べません。
ストア哲学が教える「務め」としての善行
ストア哲学では、人が正しい行いをするのは「務め」であり、それ以上でも以下でもないと考えます。ちょうど太陽が光を放ち、木が実を結ぶように、人が正しいことをするのは自然の営みなのです。
そのため、善行に称賛や見返りを求めるのは、自然の法則に逆らうようなもの。善行はそれ自体が完結しており、外部からの評価を必要としません。
正しい行いを実践するための心得
マルクス・アウレリウスの言葉を現代的に実践するには、次のような心得が役立ちます。
- 正しいと思ったら迷わず行う
見返りを考える前に「これは正しいか」を基準に行動する。 - 感謝や称賛を期待しない
相手の反応に依存せず、行動そのものに価値を見いだす。 - 自分の務めを果たす意識を持つ
善行は特別なことではなく、日常の務めとして淡々と行う。 - 他人の善行を素直に認める
誰かが正しい行いをしていたら、それを尊重し、自分の模範にする。
まとめ
正しい行いの価値は、それ自体にあります。マルクス・アウレリウスが説いたように、称賛や見返りは不要であり、むしろ余計なものです。正しいことをした理由は、ただ「それが正しいから」で十分なのです。
今日からできることはシンプルです。
- 感謝されなくても、正しいことをする
- 評価を求めずに、淡々と務めを果たす
- 他人の善行を見習い、自分も続ける
この姿勢を持ち続ければ、あなたの人生はより自由で誠実なものになるでしょう。