「不正は自分に向けられる」
マルクス・アウレリウスは『自省録』の中でこう記しています。
「間違いを犯す者は、自分自身に対して間違いを犯す。不正な者は、自分自身に対して不正を犯す――そうやって自分自身を醜くするのだ。」
この言葉は、悪事を働くことが一時的に誰かを傷つけたり、利益をもたらすように見えても、結局は自分自身をも蝕んでしまうという真理を突いています。
悪事のあとに残る「後味の悪さ」
人をだましたり、嘘をついたりした経験がある人ならわかるでしょう。その瞬間はうまく立ち回ったように見えても、心のどこかにざらついた感覚や後悔が残ります。
実際、犯罪の現場に嘔吐物が残されていることがあるのも同じ理由です。怒りに任せて暴力や不正を働いたとしても、「やり遂げた!」という快感ではなく、むしろ吐き気を伴う不快感に襲われるのです。
これは人間が本能的に持っている 「悪事と自己矛盾を嫌う感覚」 にほかなりません。
悪事と価値ある自己は両立しない
私たちは「正しい行いをしている自分」を価値ある存在として認めたいと願います。そのため、悪事を働いたときには必ず 「自己否定の痛み」 がつきまといます。
つまり、悪事と「自分は価値ある人間だ」という感覚は同時に成立しません。利己的な動機しか持てない人であっても、この痛みを避けたいがために「悪事をしない」という選択を取ることができます。
自分本位な「善い行動の理由」
ストア哲学の教えを現代に応用するなら、次のように考えることができます。
- 嘘や不正を働けば、必ず 不快感や恐怖 が自分に返ってくる
- 他人を傷つければ、罪悪感や自己嫌悪がつきまとう
- 善い行いは、自分の心を安定させ、自己価値を守る
つまり、たとえ「利己的な理由」からであっても、悪事を避けることは最も合理的な選択なのです。
今日からできる小さな実践
- 誘惑に駆られたら「今の気持ちは心地よいか?」と自分に問いかける
- 悪事のリスクを想像するよりも、その後の 「心の後味」 を想像する
- 善い行動を選んだあとの 「安心感」や「誇り」 を記憶に残しておく
これらを繰り返すことで、「善いことをしたほうが結局は楽だ」と心が学習していきます。
まとめ ― 善い行動は「自分を守る」ためでもある
マルクス・アウレリウスの言葉は、善悪を単なる道徳の問題ではなく、自分自身への影響として捉える視点を与えてくれます。
- 悪事は結局、自分を傷つける
- 善い行いは自分を守り、強くする
- 利己心からでも、善を選ぶことは可能
つまり「善く生きる」ことは、他人のためだけでなく、何より 自分自身のためなのです。
今日一日、もしも迷う瞬間があれば「これをしたあと、自分はどんな気持ちになるだろう?」と自問してみましょう。その問いかけが、あなたをよりよい選択へと導いてくれるはずです。