自己啓発

「忠告する前に誠心誠意のものかどうか自分に問え」──新渡戸稲造『自警録』に学ぶ、心から相手を思う助言のあり方

taka
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「忠告する前に誠心誠意のものかどうか自分に問え」──“正しさ”ではなく“誠実さ”を

新渡戸稲造は『自警録』の中で、こう語っています。

「私たちが人に与える忠告というのは、誠意を欠きがちだ。誠意の欠けた忠告を、しかも軽々しくするならば、それを受けても相手の心はまったく動かされないだろう。」

人に何かを注意したり、助言したりする場面は、誰にでもあります。
しかし、その忠告が本当に相手のためのものなのか──それとも、自分の優位を示したいだけなのか。

新渡戸は、忠告する前に**「自分の心の動機」を問え**と説きます。
なぜなら、どんなに正しい内容でも、誠意のない言葉は人の心に届かないからです。


「正しい忠告」でも、心を動かすとは限らない

私たちはしばしば、「自分は正しいことを言っている」と信じて、相手に忠告します。
けれども、新渡戸はその“正しさの落とし穴”を見抜いていました。

どんなに論理的で正確な言葉でも、そこに思いやりがなければ、ただの批判になってしまう。
逆に、言葉が拙くても、誠実な気持ちが伝われば、相手の心は動く。

つまり、忠告に必要なのは知識でも立場でもなく、真心と謙虚さなのです。


「誠意のない忠告」は、相手を遠ざける

新渡戸は警鐘を鳴らします。

「誠意の欠けた忠告を、しかも軽々しくするならば、それを受けても相手の心はまったく動かされないだろう。」

誠意のない忠告は、どれほど正しくても相手に響きません。
それどころか、
「見下された」「責められた」と感じさせてしまい、心の距離を広げてしまいます。

これは現代のコミュニケーションにもよく見られる問題です。
SNSでも職場でも、「相手のため」と言いつつ、実際は自分の正義を押しつけてしまうケースが多い。
新渡戸はそれを百年以上前に見抜き、**「誠意なき正義は、人を傷つける」**と暗に伝えているのです。


忠告の前に、「この人を本当に思っているか」を問え

「人に忠告しようとするのであれば、それに先立って、自分がしようとする忠告は、その人のことを本当に心から思った誠心誠意のものであるのかどうかということを、まずは自問自答すべきだ。」

忠告をする前に、一度立ち止まって自分に問う。

  • これは本当に相手のための言葉か?
  • 自分の不満や怒りをぶつけているだけではないか?
  • 相手の気持ちを思いやる余裕があるか?

この問いを経て初めて、言葉には温かみが宿ります。
真に誠意ある忠告は、相手を責めずに、相手を支える言葉になるのです。


「誠実な忠告」は、沈黙の中から生まれる

誠意のある忠告は、即座に口から出るものではありません。
それは、一度自分の中で沈黙し、熟成させた言葉です。

怒りや苛立ちの勢いで言葉を発すると、たとえ正しくても伝わりません。
しかし、一晩でも考えた末に出てきた言葉は、静かな力を持ちます。

沈黙は決して逃げではなく、誠実な言葉を生む準備期間です。
その間に、相手への思いやりが言葉に深みを与えてくれるのです。


忠告は“伝える”より“支える”もの

忠告という言葉は、どうしても「上から目線」に聞こえがちです。
しかし、新渡戸の教えを現代的に解釈するなら、忠告とは相手を支える行為

「あなたを信じている」
「一緒に考えよう」
といった共感の姿勢があってこそ、忠告は“助言”へと変わります。

誠意とは、相手を変えようとする前に、
相手と共に在ろうとする気持ちのことなのです。


まとめ:正しい言葉より、誠実な言葉を

『自警録』のこの一節には、現代人が忘れがちな「言葉の倫理」が息づいています。

「自分がしようとする忠告は、その人のことを本当に心から思った誠心誠意のものであるのかどうかを、まずは自問自答すべきだ。」

忠告は、知識や正論で人を動かすものではありません。
人を動かすのは、誠実さ・温かさ・信頼です。

だからこそ、何かを言う前に、
「この言葉に愛はあるか?」と心に問いたい。

正しいだけの言葉は鋭い刃になる。
しかし、誠実な言葉は、心を照らす灯になる。
新渡戸稲造のこの言葉は、今を生きる私たちに“話す前の静かな勇気”を教えてくれます。

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ABOUT ME
TAKA
TAKA
理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
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