「正」を失うな──幸田露伴『努力論』に学ぶ、奇説や流行に惑わされない生き方
「正」──奇書や奇説に惑わされるな
幸田露伴は『努力論』の中で、学問や人生において最も大切な徳の一つとして「正(ただしさ)」を挙げています。
「『正』とは、横道にそれたり一方に偏ったりしないことだ。」
露伴のいう“正”とは、単なる道徳的な正しさではありません。
それは、人として、また学ぶ者としての姿勢のバランスを意味しています。
どんなに高い志を持っていても、偏りや傾きがあれば、いつのまにか「道」を踏み外してしまう。
露伴はその危うさを、現代にも通じる鋭さで警告しているのです。
「人に勝ちたい」という気持ちは悪くない
露伴は、人が「他者に勝ちたい」「優れた人になりたい」と思う気持ちを否定していません。
「学問をするにあたって、人に勝ちたいと強く思うことは決して悪いことではない。」
この言葉からも分かるように、競争心や向上心そのものは健全なエネルギーです。
しかし、その気持ちが強くなりすぎると、次第に“正”を見失う危険があると露伴は続けます。
「人に勝とうとする気持ちの強い者は、バランスを失いがちになる。」
つまり、
- 他人よりも珍しいことをしたい
- 目立つ結果を出したい
- 誰も知らない知識を得たい
そんな気持ちが先走ると、知らず知らずのうちに**「奇(き)」の道**――つまり、正道を外れた方向へと進んでしまうのです。
奇を好む心が「正」を失わせる
露伴が戒めるのは、単なる知識の偏りではなく、心の姿勢の偏りです。
「人の知らないことを知り、人の思わないことを思い、人がしないことをしようとする傾向が生じて、知らず知らずのうちに小さな間違った道に迷い込んでしまう。」
ここで言う“奇”とは、奇抜・特異・異端といった「普通ではないもの」への執着。
それ自体が悪いのではなく、奇を追うことで“正”を見失う危険を警告しているのです。
たとえば、学問において「流行の理論ばかりを追う」「話題になる意見だけを信じる」ような姿勢は、一見進歩的に見えても、芯の通った理解を失ってしまうことがあります。
露伴は、**「奇を追うほど、正道から遠ざかる」**という人間の心理的傾向を深く見抜いていました。
奇書・奇説に惑わされる現代人へ
「奇書を読むことも、奇説を信じることも、そして、普通のことは面白くないとして怪しくて珍しいことだけを面白がることも、正を失っていることになる。」
この言葉は、現代にもそのまま当てはまります。
SNSやネット上には、刺激的で極端な意見、陰謀論、自己啓発的な“奇説”があふれています。
「普通の考え方では成功できない」「常識を捨てろ」といった言葉に惹かれてしまうのも、奇を好む心の表れです。
しかし露伴は、**「普通の中に真理がある」**と説きます。
奇抜な考えや特別な方法ではなく、地に足のついた「正しい道」を歩むことこそが、長く続く成長と幸福につながるのです。
「正」を保つための努力
では、どうすれば「正」を保つことができるのでしょうか。
露伴は答えをシンプルに示します。
「努力してこうしたことを避け、自ら正していかないと、あとあとになって大きな損失を招くことになる。」
つまり、「正を保つこと」もまた努力によって守るべきものなのです。
常に自分の考えを見直し、謙虚に学び直し、偏りを正す。
その地道な努力の積み重ねこそが、露伴の言う“正”の道です。
現代風に言い換えるなら、
「新しいものを疑い、古いものを尊びながら、自分の軸を磨き続ける」
ということ。
露伴の“正”は、保守的な意味での正しさではなく、バランスの取れた知性と精神の在り方なのです。
「正」を失うと、努力も実らない
努力論の中で露伴が“正”を説く理由は明確です。
どれほど努力しても、方向が間違っていれば結果は実らないからです。
奇を追い、偏りに走ることは、努力のエネルギーを浪費する行為。
反対に、正しい方向へ努力を向ければ、その一歩一歩が確実に成果を生みます。
「努力」と「正」は、両輪のようなもの。
どちらか一方を失えば、人生という車はまっすぐ進めません。
まとめ:「奇」を求めるより、「正」を磨け
幸田露伴の「『正』──奇書や奇説に惑わされるな」は、
「派手さや珍しさよりも、まっすぐな努力の中に真理がある」
という教えです。
奇を追うことは刺激的ですが、長い目で見れば、心を乱し、成果を遠ざけます。
普通の道を地道に歩む勇気こそ、本当の知恵。
露伴は、100年以上前にすでに“情報過多の時代”を予見していたかのように、こう語っています。
「正を保つ者は、決して惑わされない。」
学びにおいても、人生においても――
一時の奇を追わず、静かに“正”を積み重ねていく。
それが、真に強く、豊かに生きる人の道なのです。
