勝って誇るな、負けて嘆くな──新渡戸稲造『自警録』に学ぶ、心の平静を保つ生き方
勝ち負けに惑わされる人は、まだ自由ではない
新渡戸稲造は、『自警録』の中でこう語ります。
「物質的利益や地位、名誉などといった世俗的なものから超然とすることができれば、世の中でいわれるような勝ち負けは、まったく意味がなくなる。」
この言葉は、現代の競争社会にこそ深く響きます。
私たちは常に、他人と比較される環境の中で生きています。
学歴、収入、地位、フォロワー数……。
しかし、それらに囚われてしまうと、心の平穏は失われてしまいます。
新渡戸は、「勝敗」という価値観自体から自由になれ、と教えているのです。
真の勝利者とは「自分に勝つ人」
「真の勝利者というのは、自分に勝つことができる人であり、私心のないことがその条件だ。」
新渡戸が説く「勝利」は、他人との競争ではありません。
それは、自分の弱さ、欲望、怒り、怠惰に打ち克つこと。
たとえば——
- 怒りに流されず冷静に対応できたとき
- 誘惑に負けず誠実でいられたとき
- 苦しくても努力を続けられたとき
その瞬間、人は「真の勝利者」になるのです。
そしてその勝利の条件は、「私心(ししん)」——つまり、自分本位な欲望を捨てること。
他人に勝ちたい、認められたいという気持ちを離れたとき、人は初めて静かな強さを手に入れます。
「勝って誇る」ことは、次の敗北の始まり
勝利したとき、人はつい誇りたくなります。
しかし、新渡戸はその心の油断を戒めます。
誇りとは、一歩間違えば「慢心」です。
慢心は学びを止め、次の敗北を招きます。
古来より武士の世界では「勝って兜の緒を締めよ」と言われました。
つまり、勝利の瞬間こそ、最も危険な時であるということ。
新渡戸もこの精神を受け継ぎ、こうした驕りから自らを守るための「修養」の必要性を説いています。
「負けて嘆く」ことは、成長の機会を逃すこと
「勝っても誇らず、負けても嘆かず、つねに心穏やかに暮らしていくことができる。」
敗北を恐れるあまり、チャレンジを避ける人は多いものです。
しかし、負けとは本来「終わり」ではなく、「学びの始まり」です。
- 負けたことで、自分の課題が見える
- 失敗したことで、謙虚になれる
- 傷ついたことで、人の痛みに寄り添える
このように、負けには必ず意味がある。
それを嘆くのではなく、糧として受け止めることが、修養の姿勢です。
新渡戸が説くのは、「勝っても浮かれず、負けても落ち込まない」——
どんな状況でも心の平静を保つ、静かな強さなのです。
心の平静こそが「本当の強さ」
新渡戸稲造の哲学では、心の平静はすべての徳の基礎です。
どんなに成功しても、心が乱れていれば幸福にはなれません。
逆に、敗れても心が安らかであれば、その人の人生は充実しているのです。
現代風に言えば、それは「メンタルの安定力」とも言えるでしょう。
SNSやビジネスの世界で結果が可視化される今、
他人の評価に心を揺らさず、自分の軸を持って生きることこそが、
新渡戸の言う“真の勝利”なのです。
勝敗を超えた「修養」の境地へ
この章で新渡戸が示す理想の生き方は、次のように要約できます。
- 勝敗は一時のもの、心の在り方は永遠のもの。
- 他人との競争ではなく、自分との戦いに勝て。
- 勝っても奢らず、負けても心を乱すな。
つまり、「勝負の結果」に価値を置くのではなく、
「どう生きたか」「どう心を保ったか」に価値を置く生き方です。
それは、外的な成功よりも内面的な安らぎを重視する、まさに“修養の完成形”といえるでしょう。
まとめ:勝敗を超えた心の自由を手に入れる
『自警録』のこの章は、競争の激しい現代社会にこそ響くメッセージを持っています。
- 世俗的な勝敗にとらわれるな。
- 真の勝利とは、自分に勝つこと。
- 勝って誇らず、負けても嘆かず、常に平静であれ。
人生の勝敗は、他人が決めるものではありません。
あなたの心が穏やかであれば、その瞬間、あなたはすでに勝利者なのです。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代の言葉で言い換えるなら、こうなるでしょう。
「勝っても浮かれず、負けても腐らず——それが本当の勝者の姿だ。」
他人の評価に一喜一憂せず、
自分の信念をもって静かに生きること。
それが、『自警録』の説く“勝敗を超えた生き方”であり、
現代人が取り戻すべき心の品格なのです。
