九十九回裏切られても、人を信じよ──新渡戸稲造『人生読本』に学ぶ、信じる力の美学
疑うことで守れるものより、失うものの方が大きい
新渡戸稲造は、『人生読本』で次のように語っています。
「百のことを疑えば、そのうちの一つぐらいは当たるかもしれない。」
確かに、慎重に生きることは悪いことではありません。
人を疑えば、騙されるリスクを減らすこともできるでしょう。
しかし新渡戸は、そのような生き方を“損な生き方”だと指摘します。
「その一つを当てるために、九十九回人を疑って心を痛めるとすれば、それは割に合わないことだ。」
つまり、人を疑うことで得られる「一つの安全」は、
失われる「九十九の平穏」に比べれば、あまりにも小さい。
人を疑うたびに、心は疲れ、信頼という最も尊い財産をすり減らしていく。
新渡戸が言うのは、**「疑いの人生は心を貧しくする」**ということなのです。
九十九回失望しても、一度信じられることの価値
「むしろ、九十九回失望したとしても、一回でも人を信じられるほうがどれほどいいだろう。」
この一文には、新渡戸稲造の“人間愛”が凝縮されています。
現代のように、裏切りや嘘、誤解があふれる社会では、
「人を信じること」は、ある意味で“危険”な選択に見えます。
しかし、新渡戸はあえて逆の道を選びます。
彼にとって、信じることはリスクではなく、誇りなのです。
なぜなら、「信じる」という行為は、相手のためだけではなく、
自分の人間性を守るための行為だからです。
九十九回裏切られても、心の中に「もう一度信じよう」という光を保てる人。
その人こそ、本当の意味で強く、豊かな人間だと新渡戸は語ります。
「信じる心」は、自分の鏡でもある
新渡戸は別の箇所でも、「人は自分の心で他人を測る」と述べています。
つまり、疑い深い人は他人の中に“疑い”を見、
信じる人は他人の中に“善”を見つけるのです。
これは心理学的にも真理であり、
「人間関係は自分の内面を映す鏡」だといえます。
たとえば、
- 人を疑うことに慣れた人は、常に他人の裏を読み、疲弊します。
- 一方、人を信じる人は、相手の中に可能性を見出し、前向きに生きられます。
新渡戸が信じる力を尊んだのは、
それが「他人を変える力」ではなく、
自分の心を高める力だからなのです。
信じることは、決して“無防備”ではない
「人を信じろ」と言うと、甘く見られがちです。
しかし、新渡戸のいう「信じる」は、単なる盲信ではありません。
それは、**「人間の中には必ず光がある」という前提を持って生きること」**です。
裏切られても、その人のすべてを否定するのではなく、
「この人にも善い部分がある」と信じ続ける。
それは、愚かさではなく、精神的な強さです。
信じるとは、「自分が何を見ようとするか」を選ぶこと。
そして、それを選び続ける勇気を持つことです。
「信じる力」は、人を惹きつける
信じる人の周りには、信じたいと思う人が集まります。
信じられた人は、自然と「その信頼に応えたい」と感じるからです。
これは心理学でいう「ピグマリオン効果」にも通じます。
期待や信頼は、人を成長させる力を持っています。
逆に、いつも疑いの目を向けている人の周囲では、
人々の心は閉じてしまいます。
新渡戸が説く“信じる勇気”とは、
相手を変えるための方法ではなく、
信じることで人の善を引き出す術でもあるのです。
現代社会にこそ必要な「信頼の美徳」
SNSや情報社会の中で、私たちは他人を疑うことに慣れています。
「裏があるのではないか」「損をしないか」と考える癖が、
人間関係の温度をどんどん下げていく。
しかし、新渡戸の言葉は100年以上前からその危険を見抜いていました。
「九十九回裏切られても、人を信じよ。」
この言葉は、「裏切られても諦めるな」という励ましではなく、
**「信じる心を失うことが、最も大きな損失だ」**という警告なのです。
まとめ:信じる心が、人生を明るくする
『人生読本』第154節の教えをまとめると、次の3つに集約されます。
- 疑いは心を守るようでいて、実は心を痛める。
- 信じることは、他人のためではなく、自分の人間性を守る行為。
- 九十九回裏切られても、信じる心を持ち続けることが、人生を豊かにする。
新渡戸稲造は、人を信じることを「希望の表現」として捉えていました。
信じるとは、理想を捨てないこと。
人間の中に光を見続けることです。
最後に
新渡戸稲造の言葉を現代風に言えば、こうなります。
「疑うよりも、信じることで人生はあたたかくなる。」
裏切りや失望は避けられません。
しかし、信じる心を失った瞬間、人は最も大切な“心の明るさ”を失ってしまう。
だからこそ、たとえ九十九回裏切られても——
百回目には、もう一度、人を信じてみよう。
その信頼こそが、あなたの人生を再び照らす光になるのです。
