自己啓発

名誉は求めるものではなく、善く使うもの──新渡戸稲造『修養』に学ぶ、名誉と誠実の関係

taka

名誉とは「求めるもの」ではない

新渡戸稲造は、『修養』の中で次のように述べています。

「名誉は自分から求めるものではない。」

名誉とは、人から与えられる評価や信頼の象徴です。
それを自分から求めてしまえば、行動の動機が“他人の目”にすり替わってしまいます。
つまり、「人からどう見られるか」が目的になり、本来の誠実さが失われてしまうのです。

名誉を追い求める人は、やがて“外面の美しさ”に執着し、心の中の純粋さを見失います。
だからこそ、新渡戸は「名誉は求めるな」と言うのです。


与えられた名誉は「断る必要はない」

しかし、新渡戸の考えは単なる禁欲ではありません。
彼はこう続けます。

「それが自分が求めたものではなく、人から与えられたものであるならば、無理にそれを拒否する必要はない。」

つまり、自然に得た名誉は受け取ってよいのです。
それは、努力や誠実な行いの結果として与えられた“信頼の証”だからです。

名誉を拒むことが謙虚であるかのように見えることもありますが、それは本当の謙虚さではありません。
新渡戸の言う謙虚さとは、「名誉を正しく受け止め、正しく使う」姿勢にあります。


名誉の“善用”が人を磨く

新渡戸の教えの核心はここです。

「むしろ、これを善用するぐらいになってほしい。そうすれば、それは自重という尊い力を与えてくれる。」

名誉を得たなら、それを「自分を律する力」として活かすべきだということです。

たとえば、

  • 信頼される立場にあるからこそ、誠実に行動しよう
  • 尊敬を受けているからこそ、人の模範となろう
  • 周囲に評価されているからこそ、自分を裏切らないようにしよう

このように、名誉を“自重の源”とすれば、それは人間としての品格を育てる力になります。


「名誉を持つ人の責任」

新渡戸はこうも述べています。

「『自分はこれだけの信用を受け、これだけ世間から褒められているのだから、こんな卑劣なことはできない』というように、自分の受けている名誉を善用すれば、その名誉は一層強固なものになる。」

名誉とは、いわば“見えない監督者”のようなものです。
自分が見られているという意識が、行動を正しい方向へ導いてくれます。

逆に、名誉を持ちながらそれを軽んじると、その信頼は一瞬で崩れ去ります。
名誉は、持つことよりも「守ること」の方が難しい。
だからこそ、名誉を得た人には、より高い自制と誠実さが求められるのです。


名誉の真価は「人を動かす力」にある

名誉を善く使うとは、単に自分の品格を保つことだけではありません。
それは他者に良い影響を与える力にもなります。

誠実な人が誠実に生き続ける姿は、それ自体が周囲への教育になります。
名誉を持つ人が謙虚にふるまえば、人々はその姿勢に学び、社会全体が少しずつ良くなっていく。

名誉とは、“自分のための飾り”ではなく、“他人を導く光”なのです。


名誉を腐らせる人、育てる人

名誉を得たあと、人は二つの道に分かれます。

  • 名誉を“誇り”に変える人
    → 「この信頼に恥じないように生きよう」と、名誉を自制の力に変える。
  • 名誉を“慢心”に変える人
    → 「自分は特別だ」と思い上がり、努力を怠る。

新渡戸が説く「修養」とは、前者の道を歩むこと。
名誉を手にした瞬間こそ、謙虚さを忘れずに、心を整え続けることが求められます。


まとめ:名誉を持つことは「責任を持つこと」

新渡戸稲造のこの章は、名誉を拒むでも、誇るでもなく、“活かす”ことの大切さを教えています。

  • 名誉は求めて得るものではない
  • 与えられた名誉は、正しく受け止めて使う
  • 名誉を自重の力として、自分を律する
  • 名誉を守ることで、人の信頼と社会の徳を育てる

つまり、「名誉とは責任」なのです。
それを背負うことで、人はより誠実に、より強く生きられる。


最後に

新渡戸稲造の言葉は、現代の社会人やリーダーにも深く響きます。
名誉や称賛を得ること自体が目的ではなく、それをどう使うかが人間の価値を決める。

名誉を誇らず、恐れず、正しく使う。
その姿勢こそ、時代を超えて尊ばれる「本物の修養」なのです。

スポンサーリンク
ABOUT ME
TAKA
TAKA
理学療法士/ビール
理学療法士として臨床に携わりながら、リハビリ・運動学・生理学を中心に学びを整理し発信しています。心理学や自己啓発、読書からの気づきも取り入れ、専門職だけでなく一般の方にも役立つ知識を届けることを目指しています。
スポンサーリンク
記事URLをコピーしました